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CASE-086 ― 妖怪・怪異

ぬっぺふほふ

『百怪図巻』『画図百鬼夜行』など江戸の妖怪絵巻に描かれた、顔と体の皺の区別がつかない一頭身の肉の塊のような妖怪。絵巻には名前と姿しか残らず、性質の説明は後世の研究や図鑑の創作に大きく委ねられてきた。

01 ― 概要

地域全国(絵画資料が中心で、特定の伝承地は確認できない)
起源江戸時代の妖怪絵巻に姿が残る。それ以前の口承の記録は乏しい
拡散の経路江戸の妖怪絵巻(百怪図巻)と版本画集(画図百鬼夜行)による図像の伝達 / 洒落本など江戸文学での言及 / 昭和以降の妖怪図鑑・事典による転載と説明の付加 / 水木しげるの作品と水木しげるロードのブロンズ像によるキャラクター化
現況妖怪画のキャラクターとして図鑑や創作に登場し続ける。鳥取県境港市の水木しげるロードにはブロンズ像がある
来歴の確かさ絵画資料の範囲では辿れる。『百怪図巻』(1737年)と『画図百鬼夜行』(1776年)に名と姿があり、同時代の洒落本にも言及がある。ただし性質や行動を記した江戸期のまとまった文献はなく、「のっぺらぼうの一種」という位置づけや「寺に現れる」といった説明は、近代以降の研究者・図鑑の書き手による整理や創作であることが指摘されている。なお担当指示にあった鳥山石燕の「野箆坊」は、石燕が描いた名称としては確認できず(石燕作品では「ぬっぺふほ」)、「野箆坊」はのっぺらぼうの表記である
テーマ肉の塊、顔のない怪、絵巻の妖怪
関連する話のっぺらぼう / 人面瘡 / あかなめ

02伝承の内容

ぬっぺふほふ(ぬっぺっぽう)は、江戸時代の妖怪絵巻に描かれた妖怪である。顔とも体ともつかない皺だらけの肉の塊が、一頭身の姿で描かれる。目鼻らしい窪みは皺に紛れ、どこからが顔でどこからが体なのか判然としない。佐脇嵩之『百怪図巻』(1737年)には「ぬつへつほう」、鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)には「ぬっぺふほ」の名で収められた。

絵巻には解説文がほとんどなく、何をする存在なのか、江戸の資料からはほぼ分からない。洒落本『新吾左出放題盲牛』(1781年)には「ぬっぺっぽうといふ化けもの有り。目もなく耳も無く」とあり、死人の脂を吸うといった断片的な記述はあるが、まとまった伝承は残っていない。名前や姿の似かようから、現在はのっぺらぼうの一種とみなされることが多い。

まとまった話は、文化期の随筆『一宵話』に記録された類話である。1609年(慶長14年)、駿府城の中庭に、指のない小児のような肉塊が現れた。素早くて捕まえられず、徳川家康の命で城外へ追い出されたという。後に薬学に通じた者が、それは中国の古書や白沢図にある「封(ほう)」というもので、その肉は多力を得る仙薬になったはずだと惜しんだとされる。

昭和以降の図鑑では、廃寺に現れる、死肉が化けたもので跡に腐肉の臭いが残る、といった説明が加えられた。しかし、「寺に現れる」という説明は藤沢衛彦が絵の背景から連想した創作であり、死肉起源の説明も一次出典は不明だと指摘されている。伝承の実体が薄い分、後世の説明が何層にも重なった妖怪といえる。

03伝播と変遷

1609年(慶長14年)
駿府城の中庭に、指のない手を持つ小児のような肉塊の者が現れたと、後の『一宵話』が記録する。徳川家康の命で城外へ追い出されたという。
1737年(元文2年)
佐脇嵩之『百怪図巻』に「ぬつへつほう」が描かれる。絵画資料としての早い例。
1776年(安永5年)
鳥山石燕『画図百鬼夜行』に「ぬっぺふほ」が収録される。
1781年(天明元年)
洒落本『新吾左出放題盲牛』に「ぬっぺっぽうといふ化けもの有り。目もなく耳も無く」と記される。
1810年頃(文化年間)
牧墨僊『一宵話』が駿府城の類話を記録する。中国の「封」というものに同定し、その肉が仙薬になると惜しむ者の話を添える。
1928年(昭和3年)
乾猷平『蕪村妖怪絵巻解説』が、古写絵本に描かれた「ぬっべっほう」を紹介する。

バリエーション

ぬっべっほう(古写絵本)乾猷平が紹介した、紫水文庫所蔵の古写絵本に描かれた妖怪。「皺の多い琉球芋に短い四肢を配したような化物」と表現され、古いヒキガエルが化けたものとも、狐狸の類ともいうとされる。
中国の「封」との同定『一宵話』の類話では、この肉塊は中国の古書にある「封」と同定される。封の肉は多力を得る仙薬になるとされ、追い出してしまったことを惜しむ者がいた、という落ちが付く。
多田克己の「白化」説妖怪研究家・多田克己による解釈。顔に白粉をぬっぺり塗った様をいう「白化(しらばっくれる)」の体現として、人間に成りすまして近づき、油断させて正体を現すのだという。研究者による読み解きであり、伝承そのものではない。

04確認できること・できないこと

確認できる事実

  • 『百怪図巻』(1737年)と鳥山石燕『画図百鬼夜行』(1776年)に、名前と姿のみでこの妖怪が描かれていること
  • 洒落本『新吾左出放題盲牛』(1781年)に「ぬっぺっぽうといふ化けもの有り。目もなく耳も無く」という言及があること
  • 文化期の随筆『一宵話』に、1609年に駿府城へ肉塊のような者が現れたという類話が記録されていること

確認できない部分

  • この妖怪の本来の性質や行動(江戸期の資料に説明がなく、推測の域を出ない)
  • 「肉を食べる・舐めると寿命が延びる」という言い伝えの出典(近世の文献では確認できない)
  • のっぺらぼうとの本来の関係(同一の伝承から分かれたのか、姿の類似による後世の整理なのかは不明)

後付けとみられる脚色

  • 「廃寺・古寺に現れる」という説明(民俗学者・藤沢衛彦の著書に由来し、『画図百鬼夜行』の絵の背景からの連想による創作と指摘されている)
  • 「死肉が化けた妖怪で、通った跡に腐肉のような臭いが残る」という説明(一次出典が不明のまま昭和以降の図鑑に転載されてきた)
  • 肉を食べる(あるいは舐める)と不老長寿になるという言い伝え(近世の文献で確認できるのは『一宵話』の「多力を得る仙薬」までで、長寿の効能は後世の読み替えとみられる)

05AI分析

社会的背景妖怪画集という商品と「説明」の需要

ぬっぺふほふをめぐる記述の少なさは、江戸の出版文化のあり方を示している。妖怪画集は売れる商品であり、編者は古い絵巻の図像を集めて名前を添えた。伝承のない絵だけの妖怪が量産される土壌がそこにあった。昭和以降の図鑑も商業出版である以上、空白のままでは商品にならず、書き手は説明を補う。そのたびに創作が「伝承」の顔をして重なっていく過程は、ぬっぺふほふの来歴そのものが示す、妖怪文化の生産構造の縮図である。

科学的視点検証対象は「伝承」ではなく「図像」になる

科学的検討の対象は、妖怪の実在ではなく、まず図像そのものになる。皺の集まりが目や口に見えるのは、人間が無意味な模様から顔のパターンを読み取る傾向(顔の見まちがい)で説明できる範囲の現象である。江戸の読者がこの図を「化け物」と受け取れたのも、顔らしい配置が辛うじて読み取れるためだろう。反対に、出現談や性質については検証可能な記録が存在しないため、科学の側から肯定も否定も材料がない、というのが正直なところである。

なぜ広まったのか口承ではなく転載で生き延びた妖怪

広まった経路は、ほぼ出版物だけで追える。絵巻の『百怪図巻』から石燕の版本『画図百鬼夜行』へ図像が受け継がれ、近代以降は妖怪図鑑がそれを転載し続けた。口承による拡散の痕跡が乏しい代わりに、本から本への転載の系譜ははっきりしている。水木しげるが作品に取り上げ、境港の水木しげるロードにブロンズ像が置かれたことで、絵の妖怪は立体のキャラクターとしても定着した。名前と絵だけが一人歩きし、説明は時代ごとに継ぎ足される、という広まり方である。

横断比較のっぺらぼう、あかなめとの「絵が先行する妖怪」という共通点

のっぺらぼうとの比較が欠かせない。あちらは民間の遭遇談を持つ「顔のない怪」で、鏡の前の女が振り向くといった物語の核がある。ぬっぺふほふは物語の核を持たず、顔と体の区別そのものが溶けた姿だけが残った。多田克己が両者を「白化(しらばっくれる)」の語で結びつけたのは、その欠落を埋める解釈の試みである。また、あかなめも石燕の画集に名と絵で現れ、性質の説明が後付けされた妖怪であり、「絵が先にあり、伝承が後に作られる」という構造は江戸の妖怪画集に収められた無名の怪に広く共通する。

06出典・参考文献

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